喫煙とガン

  • リスク

わたしは先に述べたように,喫煙は肺がんを引き起こす確率を高めるということは認める.ただし,その大きさはほとんどゼロだ.
「リスクを高める」というのであれば,外出は通り魔に遭うリスクを高めるし,交通事故に遭うリスクを高める.外出しない場合には通り魔に遭う確率も交通事故に遭う確率もゼロだから,外出することによるリスクは無限大に高まる*1.しかし,実際に外出して通り魔に遭う確率はほぼゼロだ.「外出すると通り魔に遭うリスクが無限大に高まるから,外出は控えよう」という言い方が馬鹿げていることにはほとんどの人が賛成するだろう.
肺がんになる確率は通り魔に遭う確率よりは確かに大きい.「がんの統計'03」(資料編14「喫煙と肺がん」)によれば,20から24歳で喫煙を始めた男性が肺がんで死亡する割合(確率)は10万人当たり114人,つまり0.1%である.これに対して,非喫煙者の場合には0.02%で,喫煙者が肺がんで死亡する割合は非喫煙者の5倍となっている.マスメディア等でさかんに取り上げられるのは,この非喫煙者と比較した場合の5倍という数字である.喫煙が恐ろしいというイメージを抱かせるためには,数字はできるだけ大きい方がいい.「タバコを吸うと肺がんで死ぬ確率は0.1%ですよ!」では,説得力がない.この言い方が正確ではないことは,とりあえず脇に置くとしても.
わたしが問題にしたいのは,この0.1%という数字と現在の日本における喫煙バッシングは釣り合いがとれていないということだ.タバコには毒が含まれているのだろう.だから,「吸わない方がいいですよ」と啓蒙するのは理解できる.しかし,その毒の強さと政府やマスメディアによる反喫煙キャンペーンは釣り合っていない.0.1%では説得力がないために,非喫煙者と比較した場合の5割や80%などの「大きな数字」ばかりで,「タバコを吸ったらほぼ確実に肺がんになる」と思わされているばかりか,喫煙者は吸ったら確実に死んでしまう毒ガスでも撒き散らしているかのようなイメージが作られている.
国民の健康を考えるというのであれば,たとえば「長時間労働はやめよう」とか,「自動車は排気ガスを撒き散らすのでやめよう」いうキャンペーンをなぜやらないのか.わたしの時にはなかったが,最近では小学校や中学校などでも反喫煙教育が行われているらしい.教室でこのようなことを話すくらいであれば,グランドで遊ばせておいた方がはるかに子どもの健康にはいいのではないかと思う.

  • 迷惑

タバコが迷惑だ」という主張は理解できる.タバコの煙がどうしてもだめだという人もいるだろう.わたしの同僚にもいる.もっとも,彼は車で通勤しているが.
迷惑を被っているのであれば,法律等で規制しなくても「迷惑だからやめてください」と言えば済むだけの話である.わたしはタバコの煙がどうしてもダメだという排気ガスを撒き散らしている人の前では吸わないし,「やめてくれ」と言われればやめる.
ここまでは「迷惑」論に対する前置きである.
どうしてタバコだけがこれほど迷惑なものとして思われるようになったのかと言えば,理由のひとつは政府とマスメディアによる「毒ガス散布」キャンペーンである.
タバコがまるで人体に悪影響を及ぼす唯一最大の毒であるかのように宣伝したために,それがなかったならば大した迷惑とは感じていなかった人までが,「毒ガスを吸わされている」と思うようになってしまったのだ.こうして「毒ガス散布」キャンペーンは,一般市民の間に軋轢を生み出した.これもねらいのひとつだったかもしれないが.
「やめてくれ」とは言いにくい,という意見もある.確かにその通りだろう.しかし,わたしたちは他人と仕事をしたり同じ電車に乗ったり,さまざまな場で他人を関わっていく中で迷惑な行為には山ほど出会っている.いちいち「やめてくれ」などと言っているだろうか?たいていは,言いにくくてがまんしてるものだろう.どんなささいなことでも,いちいち「迷惑だ」などと言っていたら,小学校の教室のようにいたるところでけんかが起こってしまう.
社会の中で他人と関わって生活していくということは,ある意味では他人に迷惑をかけ,他人から迷惑を被って生きていくということだろう.だいたい,何が迷惑な行為なのか,人それぞれで,いちいち「迷惑だ」と言われて直していたら,生きていくことが不可能になってしまう.「あなたのその服装が不愉快で迷惑だ」とか,「あなたのその顔が不愉快でストレスがたまって迷惑だ」とか,どうすればいいのだろう.「迷惑」論で喫煙者を罵倒しているような人は,自分は誰にも迷惑をかけていないと思い込んでいる能天気な人だ.「わたしは誰にも迷惑な振る舞いをしていない」と自分では思い込んでいても,あなたの服装や顔,あなたの存在それ自体が不愉快で迷惑を被っている人もいることを忘れないで欲しい.
顔は治せないが,喫煙は止められるという意見も聞こえてきそうだ.
とんでもない.顔は整形すれば「治せる」し,服装も変えられる.しかし,生理的に受け付けない顔というのは人それぞれだから,顔を「治して」きたら,今度は別の人がその顔を嫌と思うかもしれない.こうなってくるときりがない.
何をどれくらい迷惑と感じるかは人それぞれであるから,それらをすべて調整することは不可能であり,そして政府による調整がなくても,これまでわたしたちはなんとかやってこれたのだ.
政府とマスメディアによってあるひとつの迷惑が特別な地位に置かれ,それに国民が従う光景は恐ろしい.「特別な迷惑」を作り出すことは簡単だ.タバコの次は何だ?

歩きタバコが増えた原因は,駅のホームや建物内をことごとく禁煙にしたからだ.とりあえず,「自分のところ」から不愉快なものを消そうとしても,それは別の場所に移動するだけの話である.駅のホームをことごとく禁煙にした結果,駅前の人ごみで吸う人が増えて,より危険になった.これは,自分の家の前のゴミを隣の家の前に移動させているようなもので,ほとんどマンガである.
わたし自身の立場を言えば,人ごみで吸うのはよくないと思うので吸わない.たとえば,渋谷のハチ公前のスクランブル交差点(あらゆる方向から人が歩いてくる)で吸いながら歩いている人がいるが,そうした人を見ると「お前のせいで,喫煙者全員がマナーが悪いと思われるんだよ」と,非喫煙者以上に腹が立つ.
本題にはいろう.
歩きタバコで火傷させられたというニュースが時々でかでかと報道されることがある.なぜ,あれほど大きく報道されるのか?理由は簡単.めったに起こらないめずらしいことだからだ.錯覚している人が多いと思うが,起こった事件が重大だからではない.
マスメディアの報道における取り扱いの大きさは事件の重大性ではなく,「どれだけ読者や視聴者の気を引くか」である.だから,めったに起こらないことは大きく取り扱われる.たかが火傷であるにもかかわらず,でかでかと報道される理由はここにある.
他方で交通事故による死亡はあまり大きく扱われない.なぜなら毎日20人ほどが死ぬのは,今の日本では当たり前のことだからだ.「たかが火傷」と書いたのは,死亡とタバコによる火傷(タバコの火で全身火傷で死亡することはないだろう)を比較すれば,死亡の方がより深刻だと考えるからである.
タバコの火傷(ケガ)なみの扱いで交通死亡事故をとりあげていたら,たとえば新聞の3面記事はそれだけで埋まってしまう.死亡事故だけでいっぱいになってしまうのだから,交通事故によるケガまで取り上げていたら,毎日の新聞やニュースのすべてがそれで埋め尽くされてしまう.なにしろ,2004年の負傷者数は118万人(1日当たり3232人),重傷者だけでも7万人(1日当たり192人).
これだけいるのだから,あなたの身の回りで交通事故に遭った人のひとりやふたり,すぐに思い浮かべることができるはずだ.他方で,タバコの火によって交通事故なみのひどいケガ(火傷)をした人を思い浮かべることができるだろうか.
めったに起こらないがゆえに大きく取り上げられ,危険視されるタバコと,毎日20人も死んでいるので,当たり前のことになってしまっている交通事故.
次の「コスト」論にも関係するが,「タバコを買わなかったらこれだけお金がたまる」という主張をしているページには,こともあろうに「車が買える」などと書いてある.なにを言っていいのか,わたしにはわからない.肺がんで死ぬよりは交通事故で死ぬ方がいいですよ,ということだろうか.

  • 社会的コスト

「タバコ関係医療費」とされているもののうち,どれくらいが実際にタバコと関係しているのか,まったくわからない.現状はどんぶり勘定である.アスベスト等の問題もあるので,まずは計算をきちんとして欲しい.
「余分な医療費」と言うのであれば,酒も同じ,長時間労働も同じである.あげていけばきりがない.さらに,この言い方にならえば,「うちは子どもがいないのに,教育にかかわる費用を払わされている」という意見も認められなければならない.だから,「一切の税金,公的保険を廃止すべきだ」という意見は別として,「タバコだけはやだ」というのは,たんにその人がせこいだけの話である.
タバコによって集めた税金よりも,コストの方が上回っているという意見があるが,それは古典的名著とも言える「自動車の社会的費用」(isbn:4004110475)が明らかにしたとおり車も同じ.
わたしたちがCDやDVDを買えば,ハードも自分のカネで買わなければならない.タバコを買えば,灰皿も買わなければならない.他方で車を買った場合には,道路は税金で作ってくれる.道路建設を建設業に対する「補助金」と勘違いしている人がいるが,それは間違っている.自動車産業に対する「補助金」である.建設業はそのおこぼれにあずかっているにすぎない.
「車はみんなが使って便利だから,税金を投入してもよい」という意見は転倒している.税金を使って道路を作りまくったから,その結果として車が便利になったのであって,逆ではない.道路がないところでの車は,CDプレイヤーがないCDと同じである.車を買った人(車を使う企業)から道路建設費を徴収していたら,ここまで車は一般化していなかっただろう.
「道路は人も歩く」と言う人は,道路をよく見直せばいい.駅のホームや建物内の廊下など人しか歩かないところと,車が通る道路はまったく違っている.道路は車のためであって,人のためではない.人は隅を歩かせてもらっているだけである.
「社会的コスト」として,勤務時間中の喫煙があげられることがある.労働時間の損失というわけだ.
誰にとっての損失か?企業にとっての損失である.吸っている本人にとっては休憩なのだから,なにも損はしてない.企業から見れば,タバコを吸わなくても休憩時間は「損失」である.有給休暇も同じ.反喫煙運動が「市民運動」ではなく「企業運動」になってしまっている側面を示すよい例だろう.長時間労働,休日出勤,過密労働に耐えられるように健康に気をつけろ,ということか.あるいは,体を壊すならタバコではなく労働で,という意味かもしれない.

喫煙者はタバコ会社のマーケティングにだまされてタバコを吸っている被害者だ,という意見がある.
逆に聞きたい.
今の日本で企業のマーケティングの対象になっていないものが,どれだけあるのか?と.
あなたが感動した音楽も小説も映画も,何もかも企業のマーケティングの対象だ.医療や健康ですらその例外ではないし,これからますますその傾向は強まるだろう.
さらに言うならば「反喫煙」のキャンペーンそれ自体が,政府や(おそらく)広告会社のマーケティングによって行われているのだ.
参考までに,昨日のエントリーでリンクを張った「タバコ規制のための国家能力の構築」の「9.メディアとの連携」からいくつか引用しておこう.ちなみに,この9章はいきなり「メディアを制するものは・・・文化を制する」というAllen Gingbergとかいう人(有名な人かな?)の引用で始まっている.

メディアが,あらゆるタバコ規制キャンペーンにおいて重要な存在であることは明らかであり,多数の人々に情報やタバコ規制のメッセージをすばやく普及させる最も実用的手段であることが多い.メディアは世論を形成し,政治指導者に影響を与える媒体である.ある問題についてのニュース報道が繰り返されることが政府の政策の策定を誘導することも多い.このようなことから,メディア関係の専門職との間に友好な実務関係を築き上げていくことは不可欠である.
・・・
メディア関係の専門職が知りたがっている情報を入手して提供する.
・・・
アメリカ合衆国では,スーパーモデルのクリスティー・ターリントンを起用して禁煙の効用を語らせたことでメディアの注目が集まった.研究の公表により新たな情報が利用できるようになったら,その情報を速やかにメディアに提供する.タイミングは重要である.
・・・
メディアとの良好な関係を醸成する.個人的なパイプを介して,メッセージや記事が公表されることがある.メディアとの良好な実務関係を構築しておくことにより,キャンペーンの無料広告もしくは報道という成果が得られる.
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テレビ放映されるインタビューが,どのようなテーマに及ぶのかについて事前に記者に訊ね,さらに,どのような分野についてコメントするのか,もしくはしないのかについて記者に伝えておく.記者がこの情報を明かさなければ,いつでもインタビューを拒否することができる.
・・・
パネルディスカッションもしくはグループインタビューの場合は,可能であるならば,参加者についての情報を得ておく.タバコ産業の関係者であるかどうかをチェックする.
・・・
ニュースをつくる.ニュース価値のあるイベントおよび活動を行うことにより,無料のマスコミ報道を獲得できる.

ここまでわたしに書かせることになった発端の記事.いや,正確に言えばこのエントリーに対する「はてなブックマーク」内での圧倒的な賛意に対する恐ろしさである.それは日常的にも感じていたことではあるが,相手が見えない分,よけいに恐ろしい.
このエントリー自体にはとりたてて言いたいことはない.病気で死ぬ時には誰であれ苦しく,他人から見れば醜いものであろう.身近な人に対してタバコをやめて欲しいという気持ちを持つことは理解できる.
わたしが問題にしたいのは,このタイトルである.
戦前・戦中を美化しようとする人たちですら「あの素晴らしきファシズム時代」などとはさすがに言わない.「ファシズムだったけど,いい面もあった」とか,あるいはそもそも「ファシズム」という言葉であの時代を語ろうとせず,「ファシズム」という言葉自体を避ける.つまり,「ファシズム」の定義だとか,実際に何があったのかという問題とは別に,「ファシズム」という言葉には忌まわしいイメージが付きまとっている.というよりも,「悪いもの」というイメージしかない.
このようなイメージをもった「ファシズム」という言葉を肯定的に使い,なおかつそれが受け入れられてしまうことが,わたしには恐ろしい.
このエントリーに限らず,およそどのような内容をもった主張であれ,そこに使われている言葉がひどいものであれば,多くの人は眉をひそめる.
たとえば,殺人犯に対して遺族が「あいつをぶっ殺せ」などと言ったら,世論の反感を買うことは間違いない.だから,「死刑にしてくれ」と言ったりするのだ.最近では「死刑」という言葉すら使われずに「極刑」などと言ったりする.「死刑」という言葉によいイメージがないので,使うのを避けているのだろう.「殺せ」「死刑にしろ」「極刑にしろ」,これらが指している内容はすべて同じである.内容が同じであっても,それぞれの言葉がもつイメージは違うから,他人に対して何かを言ったり書いたりする時には,言葉には気をつけるのだ.
ファシズム」という言葉を肯定的に使ったこのエントリーが受け入れられてしまうということは,喫煙者に対してであれば,どのようなことを言っても許されるという風潮が今の日本にはあることを示している.「どのようなこと」というのは,主張の内容に筋が通っているとか通っていない,科学的とか非科学的というレベルではない.どのような悪罵も許される,ということだ.犯罪を犯した人間に対してですら,「死刑」という言葉を避けることに見られるように,言葉遣いには気をつけるという状況があるにもかかわらず,喫煙者に対しては,もはやそれすらない.
少なくとも今の日本では喫煙は法律上,犯罪ではない.しかし,この反喫煙の風潮の中でほとんど犯罪者として扱われつつある.だから,喫煙者をカメラで撮影などという事件が起こる.撮影して殴られた被害者は,犯罪現場をおさえたかのような気分だったのだろう.
「1億総警察官時代」とでも呼べばいいのだろうか.「共謀罪」法案もそのうち成立するだろう.喫煙と同じように「悪いこと」は政府に取り締まって欲しいという国民の欲求.そして誰もがその取締りに率先して協力する「警察官」になった今の日本では,この法律は「うまく機能」しそうだ.国民の協力によって.


タバコの弊害は何か?それは肺がんではない.健康に対する冷静な議論を破壊し,人間の寛容さを失わせ,国民による相互監視社会を促進したことだ.この弊害をもたらしたのは確かにタバコではあるが,喫煙者ではない.そして,タバコがなかったなら,別のものが今のタバコの地位にあっただけの話である.


反論は期待していない.反「反喫煙」の主張は内容以前に「タイトル」だけで受け入れられないことは,すでに日常生活で経験済みだ.

*1:\forall a>0,\quad \lim_{b\downarrow 0}\frac{a}{b}=\infty