In the Face of Despair: Unbreakable Dignity and Pride


絶望に直面して:こわすことのできない尊厳と誇り
2004年6月17日
Nagem Salam

わたしがイラクで見てきた地獄の中で,残酷な占領のもとでイラク人とすごしたわたしの時間を通じて,もっとも高尚な経験のうちのひとつは,彼らのこわすことのできない尊厳と誇りという贈り物をもらったことだった.

最初の経験のひとつは,昨年11月に戦争で疲弊したバグダッドのホテルにチェックインするときであった.ホテルの外のには四つ星の印があった.中はとてもきれいだったが,装飾は数十年前のものであった.それでも毎日スタッフは環境やサービス,そして彼らの誇りを保つために徹底していた.

わたしが最初にホテルの中であった人は,老いた丸々太った--ステレオタイプに見える口ひげ,短いグレーの髪,大きな鼻をもった--イラク人男性だった.彼はベルマンとして働いていた.しかし,経済が破壊されていた,そして今でも破壊されているのでホテルにはほとんど客はいなかった.

彼はきちんとした,ただし,遅れの黒いパンツ,白いシャツ,黒い蝶ネクタイに光沢のある靴という時代遅れの制服を着て,ロビーに立っていた.彼はドアの外に立って,待っていた.よりましな時を,過去のよりよい時が戻ってくるのを...

それでも彼は尊厳を持っていた.彼はわたしから見れば,今日のイラク人を表していた.彼は誇りをもって仕事をしており,わたしの重い荷物を簡素なわたしの部屋まで運ぶと言った.

高潔さ,尊厳そして誇りを見ることのできる例は数多くあった.しかしすべてを書くことはできないので,そのなかでもより深遠なもののいくつかについてふれよう.

次の日,サドルシティの病院を訪問して,薬不足,電力不足,医療器具不足やそのほかの困難について医師たちと話をし,通訳の Hamid とわたしは食料をかき集め,ホテルへ戻り始めた.

覚えておいてほしいのだが,これはバグダッド中心部で大きな車爆弾による13人の死亡で一日が始まった日のことである.

わたしたちはガソリンスタンドのそばで,軍の車両と兵士を見つけた.燃えるような熱の中をわたしたちが通過した時,Hamid は頭を振った.彼は侵略賛成派であったが,毎日の破壊のあとに彼の愛した国に残されたものを見ながら,いまでは闘うためにベストを尽くしている.わたしは彼に,イラク人には驚きだ...彼らがかかわることすべてに対して,今の爆弾に対してもだ.どうやって切り抜けているのか?と尋ねた.

「われわれは,爆弾から逃れられるかどうかは神次第だということをわかっている.われわれイラク人には選択の余地はないけれど,毎日やっていくしかない」と彼は静かに説明した.

こうして彼はイラク人についてすぐにさらけ出し,世界のどこでもめったに見ることのできない職業意識をもって働いている.

この同じ精神は極限状態においてすらその姿を現す.

英語の先生として働いていた,情け深い55歳の女性にわたしはインタビューをした.彼女は4ヶ月にわたって多くの刑務所,サマラ,ティクリートバグダッドそしてもちろんアブグレイブで拘束されていた.彼女は一晩中眠ることを許されず,十分な食料も水も与えられないまま尋問され,弁護士にも家族にも連絡を許されなかった.言葉でも心理的にも虐待された.

しかし,これは最悪の部類ではない.彼女の70歳になる夫は拘留され,死ぬまで殴られた.7ヶ月間の出来事だった.

彼女は夫について話す時,泣いていた.通訳とわたしも同じだった.

「夫に会いたい,ほんとうに寂しい」彼女は立ち上がって,部屋にいるわたしたちに向かって言った.

彼女は手の汗を飛ばすかのようにを自分の手を振り,自分の胸をつかみ,さらに泣いた.
「なぜ彼らはわたしたちにこんなことをするの?」.彼女は何が起こったのか理解できなかった.彼女の2人の息子はともに拘束され,彼女の家族はばらばらになってしまった.「わたしたちはなにも間違ったことはしていなかったのに」と彼女は泣きながら訴えた.
すこし時間がたってから,通訳は出発するために車の方に向かった.午後10時はゆうに過ぎており,出発するにはすでに遅すぎた.わたしが彼女の話を聞いたこと,それについてわたしが書くことに彼女は感謝しつつ,ここで夕食を一緒にどうぞとわたしたちに言った.わたしには言葉がなかった.

同じ尊厳は悪名高いアブグレイブの拷問刑務所の門でも見られた.

男性も女性もそして泣いている子どもたちも,戸惑いと中にいる愛する人たちに会えないことや彼らについての情報が得られないことへの憤りをみせながら,荒廃が悲惨なその場所に集まっていた.

白いディッシュダッシャー(袖の長いゆったりした服)をまとい,スカーフは乾燥した暑い風にに弱くはためかせながら硬く固まった土の上にすわり,Lilu Hammed は刑務所のそばの高い壁をじっと見つめていた.それはまるで彼の32歳になる息子 Abbas を日焼けしたコンクリートを通して見ているようだった.

彼は一人ですわり,彼の疲れた目はきびしく警備されたアブグレイブを厳しく見つめていた.わたしの通訳がわたしたちと話をしてくれるかどうか尋ねると,Liu はすぐにゆっくりとこちらを向き,わたしたちを見上げた.

「神の助けを待ちながら,こうして今わたしは地にすわっているのです」.

彼の息子はなんの兵器も製造していない彼の自宅を襲撃され,アブグレイブに6ヶ月いた.彼はなんらかの理由で告発されたわけでもない.Lilu は彼が得たばかりのしわくちゃになった訪問許可書を握りしめていた.それは8月18日に息子との再会を許可するものだった.

まだほかにも深甚な例が去年の4月にあった.わたしは家にむかって Al-Aadamiyah にある Abu Hanifa のモスクを通過した時のことだった.そこはほとんどがバグダッドスンニ派の地域だった.モスクのまわりに人々が集まっていた.外にある小さなトラックには食料やボトルに詰められた水の箱,そして激しい戦闘のなかで殉教したファルージャの人たちのための屍衣が積まれていた.Aadamiyah の人たちは米軍の包囲のもとにあるファルージャの人々と連帯して,包囲されている町にいる人たちが物資を手にすることができるようにと集まっていた.

Omar Khalil はわたしに説得力をもってこう言った.「これがイスラムだ!われわれは自分たち自身で援助する.もっとたくさんのトラックが必要だ.すでに5台のトラックが物資で一杯だ」.

そうするうちに,モスクの近くの拡声器からジャガイモ,お米,小麦粉などが入った袋を大急ぎでトラックに積むように指示が出された.トラックがいっぱいになるごとに,別の空のトラックがやってきて,一杯になり始めた.

Salam Khasil は目に涙を浮かべて,大きな声でわたしに言った.「すべてのムスリムはひとつの心を持っている.われわれは何があろうとも,お互いに助け合う.アメリカ人にはイラクから出て行ってほしい.自分たち自身の国で自由であることは国民の権利だ.今やわれわれは,スンニ派シーア派もみんなひとつだ.カルバラ,ナジャフ,Shu'ala ,みんなわれわれが助ける」.モスクへ向かっている人は少なくとも1000人はいるというわたしの推測を指して,かれは言った.「これらの人はみんな,きょうだいを助けるために献血しに来ているんだよ!.サドルシティや,必要としている人がいるところにはどこでも送るよ!」.

モスクの中に入り始めると,Khalil という男がわたしをわきへ引っ張り,情熱的に言った.「これは第2のハラブジャだ!サダムがハラブジャでやったことより悪い!自由はどこだ?サダムはハラブジャで悪いことをした.でもアメリカ人は今そこでもっと悪いことをしている」(サダムはハラブジャで恐ろしいガスをクルド人に対して使い,推定1万人が死んだ).

そして彼はわたしを見て,強くこう言った.「ファルージャで60人の無実の人々が殺されたのは,そこで4人のアメリカ人が殺されたからか?もし,米軍がイラクにとどまりたいのであれば,あなたはイラク人全員を殺さなければならない!」.

モスクの中では,男性の大きな集団が「アラー以外に神はいない!」と何度も何度も叫び声をあげていた.力強い唱和は巨大なモスク中に響き渡っていた.わたしはその様子を収めるためにカメラを持ち上げた.手はアドレナリンで震えていた.モスクの中のエネルギーがわたしの中をめぐってきた.ファルージャでの戦いのさなかにあるイラク人と連帯して女性は泣き,男性は叫んでいた.こぶしを空に向かって何度も何度もつき上げながら叫ぶ男たちに囲まれて立っていた Abu Hanifa にいる最中,Khalil が最後に言った言葉が浮かんできた.そしてわたしはそれを信じていた.

この集まりの後,人々は血液袋の方に向かって進んで行き,小さなグループに分かれてすわり,医師が腕に注射器を刺していた.男たちは彼らの血が地面に置かれた袋に流れていく間,力強く握手をしていた.

その晩,Al-Aadamiyah の血液はファルージャ,ラマディそしてイラク中どこでも,出血したイラク人のもとに届けられようとしていた.

イラク人の大きな寛容さと尊厳のほかの例は,ある男性のアブグレイブに拘束されている息子をめぐるやり取りにみられた.

何十年もの笑いからできた彼の目の近くのしわは,彼の目に浮かぶ悲しみを隠すことはできなかった.彼の希望とアメリカへの愛は,表現のしようもない絶望へと変わっていた.
「わたしはアメリカの将軍か裁判官と話がしたい」と Nihad Munir は言った.「わたしは息子が無実だと保証する.もしそうでなかったら,わたしを捕まえていい,と彼らに言うつもりだ」.

彼の息子,Ayad Nihad Ahmed Munir は,占領されたイラクで米軍に好まれている真夜中の民家への襲撃の最中に拘束された.それは2003年の9月28日のことだった.Ayad は今日もアブグレイブでそのままであり,彼の父親は思いつく限りのすべてをやっているにもかかわらず,息子を訪ねることが許されていない.

もちろん,結婚して3人の子どもがいる Ayad は,他の人のケースと同様になんらかのことで告発されているわけではない.

Munir 氏は彼の小さな,茶色のかばんを持ち歩いている.その中には,彼が息子を会うことを防げている手の届かない障害を乗り越えようとする彼の数ヶ月にわたるむなしい試みの結果である書類のコピーが入っている.

彼はアメリカに行ったことがある.彼の夢はいつの日かもう一度そこに行くことだ.「わたしはもう65歳です.わたしのことを夢想家だと思いますか?」かれは希望に満ちた笑顔で言った.わたしは答えた.「もちろん,ちがいます.わたしたちは自分の夢なしにどこにいるのですか?」.

彼にそう答えたとき,わたしは泣きそうになるのをこらえた.なぜなら,イラクでは,今日のイラク人にとって,Munir 氏にとってはこれだけが今持っている権利なのだから.

「わたしにはミシガンに兄弟がいる.70年代に会いに行きたかったが,彼は死んでしまった」と彼は拘留されているハンサムな息子の写真をわたしに見せるためにパスポートのコピーを取り出しつつ,続けた.「アメリカに行きたい,わたしはアメリカ人がとても友好的な人たちであることを知っている」.

彼のやさしい,情け深い声は彼の苦悩を隠していた.彼の国における米軍の行動や振る舞いに心を取り乱しつつ,それでもなお彼は,そうした行動とそれを生み出した国の市民とを切り離して考えていた.

穏やかに笑いながら彼は付け加えた.「わたしの希望がわかりました?今でもアメリカに行きたいのですよ」.

しかし,夢の短い間奏曲はすぐそばまでやってきた現実として消えてしまった.彼はわたしにイスラム政党からの必要事項が書かれた書類を私に見せた.それは息子との連絡を取るためには役に立たないもうひとつの書類だった.

それは去年の一月に,解放された拘留者がなんらかの犯罪をおかしていた場合には部族が責任をもつことを誓う場合には,拘留者の何人かを解放することをCPAが保証した時に,彼が書き,部族の族長によってサインされた手紙であった.これがもうひとつの無用の書類だ.

彼はふたたび絶望してしまった.「われわれは負けたんだ.イラク人の弁護士は役に立たない.ここでの米軍にとっては.すべてがアメリカの安全保障にかかわることだから」.

彼は丁寧な感謝を表しつつ,彼は息子といっしょにわたしを訪ねるための時間を作ることを約束して握手をした.「わたしと息子のことについて話すことができて,とてもありがたく思っています」.もう一方の手もわたしの手に置き,「あたなができることは何でもわれわれにとって助かります」と言った.

Munir 氏との話は,わたしがここでよく感じる不法への怒りを和らげるものであった.彼にとって「決定的に重要な時」であるにもかかわらず,彼の心の温厚さは,深い悲しみにまで達していた.その悲しみはふだんは外からわかる怒りの下にあって,覆われている.

その日の晩,わたしは悲しかった.4月のファルージャでの戦いにおける怒りは,悲しみの底知れぬ海のどれくらい深いところにあるのか考えた.南部における今なお激しい流血の惨事と戦いの中には,底知れぬ悲しみがある.

通訳と一緒に家に戻りながら,わたしは両親に電話して,わたしがイラク人たちを愛していることを伝えた.わたしたちは笑った.親はわたしの通訳と親子のつながりがあるような感じで話をして,またすこし笑った.

電話を切って,ヤシの木の影,星,銀色に光る月を見つめ,泣いてしまわないように深呼吸をした...なぜなら,Munir 氏の言葉が浮かんできたから.

「わたしを夢想家だと思いますか?」