[邦人人質殺害]「それでも『テロとの戦い』は続く」


四月の事件の際は、家族が政府に自衛隊撤退を求める一方で、組織的な署名活動やデモが繰り広げられ、政治運動化した。今回、家族は犯人が解放の条件とした自衛隊撤退については言及を避け、政策変更を求めなかった。
当然だろう.
家族がこの間何を考えていたのか,わたしたちには知る由もない.ただ,家族が「自衛隊の撤退」を口にすればどのような目に遭うか,それは香田さんの家族も含めて,わたしたちにとっては十分に予想がついていた.
今回の事件は政治(戦争)がからんだ誘拐事件とでも言えるものである.誘拐事件が起これば,家族は犯人の要求がどのようなものであれ,とにかく要求に応じて命だけはなんとか助けてもらいたいと願うだろう.今回の事件のように犯人の要求が政府の政策にかかわるものであれば,それが実行可能かどうか,自分たちの要求が政治的な主張として理にかなっているかどうか,要求を受け入れたところで人質がほんとうに解放されるのかどうか,もうそんなことはどうでもよいから,ただ犯人の要求にしたがって欲しいと思うのが家族ではないのだろうか.少なくともわたしはそう思う.
この社説と同じような,「今回の家族は,前回の家族と違って立派だ」という意見は,ブログでも見かけた.こうした世論が広まることが,わたしにはとても怖い.
香田さんは戦争で死んだ.そして,このまま自衛隊イラク駐留が続けば,いつ自衛隊員が死んでもおかしくない.その時,心で何を思おうとも,口に出しては政府に文句を言わないのが立派な家族だ,という世論によるプレッシャーが今の日本にはすでにある.この社説は,こうした「モデル家族」から外れることは今後とも許されない,という恫喝としかわたしには読めない.
近い将来,「ウチの息子は立派に死にました」とマスメディアで発言するような「モデル家族」が登場するかもしれない.親が子どもの葬式を出すことほどつらいことはないと思う.それにもかかわらず,子どもを戦争で失ったことを自慢げに語るような親を「立派だ」と,わたしは賞賛したくない.子どもが死んだ時にすら言いたいことが言えず,心情の吐露が許されないような社会がいいとも思わない(この点で奇妙なのは,殺人事件が起こった時には戦争で死んだ時とは対照的に,ここぞとばかりに被害者の家族の声をわたしたちが無条件で受け入れなければならないかのようなものとして報道する姿勢だ).
ところで,読売新聞は教育基本法「改正」について,「今の教育基本法からは・・・「家族」が抜け落ちている・・・」と主張している.この社説とあわせて考えれば,読売新聞がなぜ「家族」を強調し,そして理想とする「家族」の一面はどのようなものであるかも,おのずと明らかだろう.
最後に,家族と戦争で思い出した話をひとつ.
たしか,「戦争が遺したもの」の中に出てきた話だったと思うが,俳優の三國連太郎は軍隊から脱走してきて家に戻ったら,それを母親に通報され,それが理由で母親とは一生和解できなかったそうだ.