卒業式「君が代」不起立で50人余り処分へ

君が代」で思い出したので,これを機会に.
苅谷剛彦氏と西研氏の「考えあう技術」(isbn:448006222X)の中に次のような発言がある.

苅谷 へそ曲がりな言い方だけど,日の丸とか君が代問題も一緒.儀式のときに君が代を歌うということを学習指導要領で強制しているけれど,なぜそうしたのか.そういうことをわかったうえで,学校での国旗掲揚や国歌斉唱ということを考える.あるレベルの高校生ならわかる.
これも偏向教育じゃない.なぜ指導要領によって強制されているのかということ自体を,教材化すればよいわけです.
西 「日の丸反対,国旗掲揚はやめさせましょう」という形だけでやっているのはもうだめだと思う.そこでの議論というのは「日の丸は悪い」という結論が先にあるわけだから全然議論じゃない(笑).
苅谷 日の丸の使い方を議論すればいい.サッカーのワールドカップのときは振りたくなっても仕方ない.あのとき日の丸を振るのをやめろとは言えない.選手がユニフォームのどこかに日の丸のマークが入っていることに誇りをもつというのを悪いとも言えない.サッカーの話と国による強制や制度化の話とが違うことをわかったうえで議論すればよい.その間の関係を曖昧にしてはいけない.だから日の丸の使い方を考えていけばいいのであって,教育の場でひたすら日の丸を否定すればいいっていう戦略には限界がある.
西 賛成です.思想・信条の自由を育てるということは,そういうことだと思う.

「教育の場でひたすら」「否定」しているのかどうか,わたしは知らない.おそらく両氏も知らない.
それはさておき,この論法はいろいろ応用がきくと思う.
「「イラク戦争反対」とだけやっているのはもうだめ.なぜ,ホワイトハウスイラク侵略を始めたのか,それ自体を考えれなければならない」,あるいは「ビラまき弾圧反対」とだけやってるのはもうだめ.なぜ,政府(警察)が思想の自由を奪うのか,それを考えなければならない」とか.
教室で議論することを考えてみよう.
「日の丸・君が代」に賛成の教師がいる場合には,「助言」や「アドバイス」によって議論が「日の丸・君が代強制反対」という方向に流れないように気をつけるだろう.なにしろ,生徒が起立しなければ教師が罰せられるのだから.その教師自身は賛成であるにもかかわらず,生徒が「とんでもない」結論を出したために,罰せられるのではかなわない.教師はなんとしても--表現は違うだろうが--「強制賛成」という結論に持っていこうとするだろう.
強制反対の教師がいる教室ではどうだろうか.
今年の東京都の卒業式では卒業生が「校長先生と都教委にお願いします。これ以上、先生方をいじめないでいただきたい」と発言している.もし,議論が「強制反対」という結論でまとまったとしても,生徒は自分たちが起立しなければ先生が--教師自らの強制反対の姿勢に加えてさらに--「いじめ」られることを知っているのだから,自分たちが出した結論を実行することには躊躇せざるをえない.そうだとすれば,「強制反対,でも起立しよう」,言い換えれば「自分たちで考えたこととは反対の行動をとろう」という結論になるかもしれない.「正しいと思ったことは,実行せずに頭の中だけにしまっておこう」,こう考えるようになる生徒が増えてもおかしくない.もっとも,それも「日の丸・君が代」強制のねらいのひとつかもしれないが.
もちろん,教室でひとつの結論を出す必要もないだろうし,ひとつの意見にまとまるということも考えにくいけれど,「はい,議論はここで終わり.きみたちが何を考えようが卒業式では起立しなさい」では,議論する意味がないと思う.
「AかBか深く考えて結論を出せ.ただしAでなければ殴る」,これは「考えるな」と言っているのとほとんどかわらない.強制されている現状を放置したままで,「考えよう,議論しよう」と言っても,わたしにはむなしさしか感じられない.
「考えよう,議論しよう」という謳い文句には誰も反対しない.しかし,ある行動が実行されている(されようとしている)時には,たいして考えずに行動せざるをえないこともあると思う.
「簡単に「戦争反対」と言いたくない」というフレーズはよく見かける.それではいったい「難しく」あるいは「複雑に」「戦争反対」と言う,とはどういうことだろう.
イラク戦争を例にとれば,戦争前からいろいろな意見がネットや印刷物となって流れていた.いったい何冊の本を読めば,「戦争反対」と言う「資格」を得ることができるのか.いったい何ヶ国語をマスターして,いろいろな意見に目を通せば「資格」をえることができるのか.その間にもどんどん人が殺されていく.人が殺されていく時に,必要なことは家で本を読みふけることなのだろうか.
もっと極端な例を出そう.
道を歩いていたら,自分に向かって見ず知らずの人が包丁を振りかざして大声を出しながらこっちに走ってくる.その時,「この人はなぜ,こんなことをしているのだろう」,「どんな生い立ちだったのだろう」とか,あるいは「日本の治安状況はどうなっているのか」などと考える人はいないと思う.考える前に刺されないように行動しなければならないはずだ.
わたしたちに与えられた時間は限られているし,世の中の出来事はわたしたちひとりひとりが考え終わることを待っていてくれるわけではない.だから,たいして考えずに行動せざるをえない時もある.それに,深く考えたところで得られる結論はあまり変わらないようにも思う.「なんとなくイヤだ」,そんな自分の直観を信じて行動すればいい.理屈はあとで考えろ.