「汚い」国立大実験室が「きれい」に…1年で緊急改善


ノーベル化学賞受賞者の野依良治理化学研究所理事長は「職場の安全や健康を確保するという法の精神は尊重する、必要以上に厳密に運用して、研究が阻害されてはならない」という。

「が」とは,どういうことでしょう?
ともかく,118億円かけて法律を守れる体制ができているのならよい.なにしろ,(かつての)国立大学のお偉いさんは,「法律の適用を待ってくれ」,言い換えれば「違法行為を見逃してくれ」という文書を作成していたのだから.
ついでだから,ノーベル賞受賞者について.
ノーベル賞受賞者はアホである.正確に言えば,ノーベル賞受賞者の多くは,自分の専門分野以外については,人一倍無知な人間が多い.
当然だろう.あるひとつの専門分野に心血を注いできたからこそ,その分野で立派な業績を残すことができたのである.人には時間も能力にも限界があるから,幅広く深い見識を持つことなど不可能である.タクシー運転手は道に詳しいかもしれないが,数学には詳しくないだろう.音楽評論家は音楽には詳しいかもしれないが,イスラエル核兵器については知らないかもしれない.ある分野に時間を集中すれば,他の分野には疎くなって当然だ.
ところが,「ノーベル賞受賞者」という肩書きを政府は利用しようとし,その人がまったく素人の分野に重用し,受賞者は官僚に説得されるがままのロボットになってしまう.説得されてしまうのは仕方がない.なにしろ相手は説得や交渉に関しては慣れており,受賞者はまったく無知の分野に引き込まれるわけだから.とくにこの傾向が著しいのが自然科学分野の受賞者である.文学賞ともなると,大江健三郎のように社会に対して確固たる信念をもった人もいるけれど--というよりも,そうでなければ作家などできないだろうが--,実験室に閉じこもっていたような人には,社会に関して--それがどのような立場のものであれ--,耳を傾ける必要があるような意見を期待するのは無理である.
テレビに出て言うことといえば,「失敗を恐れずにやったのがよかった」等,誰でも言えることしか言えない.マスメディアで通用するような発言といえば,その程度のことしか言えないのが多くのノーベル賞受賞者である.彼ら/彼女らは自分たちの専門分野では立派だろうが,専門分野の,つまり聞く価値がある話をテレビでしても,ほとんどの人にはさっぱりわからないだろうし,ノーベル賞を受賞するような業績はその分野の人にとってはとっくに知っていることだろうから,あらためて聞く必要もあまりないだろう.
だから,ノーベル賞受賞者のマスメディアにおける話は聞く価値があまりない.人生の教訓など,誰でも話せる.しかし,「ノーベル賞受賞者だから」という理由で--この記事にあるようにわざわざ「ノーベル賞受賞者」という肩書きをつける--マスメディアはあたかも価値ある,その内容について反対することを許されない話であるかのように流し,聞く側はその人が何の知識もないことについての,あるいは誰でも話せるようなことをありがたがって聞く.大切なことは誰がしゃべっているかではなく,何をしゃべっているか,である.「誰が」はニュースバリューとしての価値を高めるかもしれないが,それは主張の中身とは無関係だ.この記事に登場するもう一人の学者はノーベル賞を受賞していないから,その中身については真剣に聞く必要がない,ということにはならないだろう.
もっとも,価値がないだけであれば,まだましかもしれない.江崎玲於奈のように優生学を主張するにまでいたった人と比較すれば.
ノーベル賞受賞者がテレビで話をしていたら,アホがしゃべってると思え.そうでない話はテレビではしないし,たとえ聞いてもわからないよ.