本宮ひろ志氏の「国が燃える」休載へ 集英社

南京大虐殺があったかなかったかを問題にしようとすれば,そもそも「大虐殺」とはどのような行為であるかが,あらかじめ定義されていなければならない.しかしその定義は大虐殺について考えようとしている人の数だけあるといってもよく,全員が合意できるような定義が作れるとはとうてい思えない.「なかった」と主張する人たちも1937年に南京で日本軍によって中国人が殺されたことは認めているのだから,「あったか,なかったか」あるいは「肯定派と否定派」という対立は,言い換えれば事件を「大虐殺」と呼ぶのか呼ばないのか,という対立である.
「なかった」と主張する人たちは「大虐殺」と呼ぶことが「大東亜戦争従軍の将兵、遺族さらには日本国及び国民の誇りに傷をつけ、辱めさせた行為」になるから,許せないのだ.証拠が本物かどうかということは歴史学における実証上の問題としては重要ではあるが,いくら事実を詳細に調べたところで事件を「大虐殺」と呼ぶべきかどうかについての答えは永久に出てこない.だから,「証拠がニセモノだったから大虐殺はなかった」と主張することはできない.同様に「証拠が本物だから大虐殺があった」とも主張できない.
証拠によっては大虐殺があったかなかったかに答えを出すことができないにもかかわらず,執拗に「証拠の捏造」を理由に「大虐殺はなかった」と主張することの目的は,証拠の不備を指摘することによってこの事件にかかわるさまざまな証拠や証言全体の信用性を傷つけ,貶め,「そんなにひどいことはしてなかったんだ」という漠然としたイメージを広め,さらに「大虐殺はなかった」と考える人たちを新たに生み出すことにある.その結果,たとえば「肯定派と否定派を読み直したら,一概に「あった」とはいえなくなった」という人が出てくる.いくら読み直したところで,新たな発見は虐殺の規模の違い程度でしかないにもかかわらず,である.この点では最近の劣化ウラン弾の危険性をめぐる議論もまったく同じ構図となっている.
いくら証拠を集め,それを調べようとも大虐殺があったかなかったかの結論は出ない.しかし,証拠の不備(らしきもの)によって「大虐殺」はなかったことにできるケースを今わたしは見ている.そして,それは次に日本の軍隊によって--今度は米軍の指揮のもとで--引き起こされるであろう大虐殺にも適用されるだろう.「こうやって大虐殺はなかったことにしますから,これからも安心して出兵して下さい」と言っているように,わたしには見える.もちろんわたしはそのようなことが起こって欲しくないし,そのためには微力をつくしたい.
証拠によれば1万人以下しか殺されていないから,大虐殺はなかったと主張している人もいる.それに対してわたしは,殺された人の数などの証拠によっては,大虐殺かどうかの答えを出すことができないと考える.こう考えるわたしは「なかった」と主張する人たちに聞いてみたい.


もし,北朝鮮に日本人が一度に1万人拉致され,すぐに殺されたとしたら,それは大虐殺ですか?