社説:党首討論 かみ合う論戦が期待できる

「かみ合う」議論は退屈である.
わたしたちが何かを主張する時には,意識せずにさまざまなことを前提としている.もちろん,意識している部分もあるかもしれないが,自分で気づかないうちに当たり前のこととして,前提にしている事柄がある.
この前提を議論の対象にすると,話が少しも「前に」進まなくなってしまう.「前に」進まないどころか,前提のそのまた前提という形で議論がどんどん深いところに行ってしまい,議論が最初に問題としていたところから遠く離れてしまうということも起こる.
「かみ合った」議論というのは,前提を共有した者同士の間でしか成り立たない.これは,政治の世界だけの話ではない.学問についても言えることである.
たとえば,「病気」をめぐって,それが客観的に存在していると考える(というよりは,自明視している)医学と「病気」なるものは主観的構築物だと考える「健康と病の社会学」の間で「かみ合った」議論が成立するはずもない.そして,医学が「そもそも病とは何か?」を問題にするようになれば,医学の「進歩」はない.
それぞれが前提とする事柄の共有の度合いが高まれば高まるほど,議論はクイズを解くようなものになっていく.その証拠に自民党と民主党の教育基本法「改正」案は,「まちがい探し」の様相を呈している.どちらが自分の所属している党の案なのか,間違える議員がいてもおかしくない.
前提を問うことは議論が「前に」進まずに,より深いところに「後退」していくことになるけれど,教育基本法にしろ共謀罪にしろ,その「改正」や創設が「前に」進むことにはならないと考えるわたしにとっては,前提を共有した者同士の議論は,議論というよりはクイズを解いているようで退屈である.そして,「医学の「進歩」がさまざまな「病気」を減らしてきた」という主張を神話だと考えるわたしにとっては,医学の「進歩」についても同じことが言える(こうした神話についてはたとえば佐藤純一「人間ドック」(isbn:4790706915),同「抗生物質という神話」(isbn:4790708632)を見よ).
自明のものとしている前提を問うこと,あるいは暴露すること,そこに議論の面白さがある.だから,クイズ解きやまちがい探しよりは,互いの前提を問う「かみ合わない」議論の方にわたしは興奮する.